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祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理を顕はす。奢れる者も久しからず、ただ春の夜の夢の如し。猛き人も遂には滅びぬ、偏に風の前の塵に同じ。
by ijigengazou
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カテゴリ:考察( 16 )

都会に美人が多いわけ

私達は道を歩いていて、すれ違った人の顔をいちいち記憶していません。無意識のうちに顔を見て知っている知っていない、美醜等を判断しています。
知っている人の顔を見かけたらそこで気づきます。それと同様に、美しい顔だと思ったらそこで
「あ、美人や!」
と認識するわけですね。ということは醜いと思ったものは認識されないわけですから、見ている人にとっては存在していないのと同じことになります。
ということは、顔をみる人数が多ければ多いほど美人が多いと言うことになりますね。美人が多いというのは、絶対的に多いわけであって、美人の割合で言うとどうなるかわかりませんよね。


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by ijigengazou | 2004-09-14 20:45 | 考察

地球温暖化を危惧する

Excite エキサイト : 国際ニュース

地球は氷河期と温暖な期間を周期的に繰り返している。今地球は前の氷河期を終えてだんだん温暖化し、次の氷河期に向かっていると考えればこの温暖化は説明がつくのだろうが、それにしても温暖化のペースが速すぎる。このままいくと大変なことになる。

そうは言っても人間、楽したがるんだよね~。ほんの数十年すれば海面が上昇し、海岸沿いの人々は住む場所を追われることになり、国土は狭くなる。ツバルなんて国ごと沈没ですよ。
さらに、熱帯の病気が北上してくる。代表的なのはマラリアか。南方に出征した経験のある知人がいるなら聞いてみるといい。高熱がでてうなされる。それはもう苦しいものらしい。さらに、植物の生態も変わってしまう。雨量もどうなるかわからない。気温の上昇によって、個体である氷がとけ水になる。気温が高いので今まで以上の速度で気化し、雨が降る。大洪水が頻発しかねない。または、気候の変化によって、全く降らなくなることも考えられる。

こういったことは、近い将来とかのんきなことではなく、自分の身に降りかかる可能性が大いにある。地球温暖化の主な原因として考えられているのが温室効果ガスであるが、その主たるものは二酸化炭素である。この二酸化炭素の大気中濃度が産業革命以来急激に上昇している。人間が化石燃料を使うようになったからだ。人間は目先の欲に捉われ、将来を犠牲にしている。増えすぎた人間が、その活動の結果排出する様々な物質で人間自身の健康、生存を脅かしている。自らの生活の場を自ら汚染しているのだ。これはまさに密度効果と呼べるものではないだろうか。密度効果はもう昆虫やねずみだけのものではない。我々人類は早くこの醜い事態に気づき、少しでも汚染を緩和できるよう活動していくべきである。


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by ijigengazou | 2004-09-04 21:58 | 考察

苦しみは

自分の中で起こる。

ある物事を感じたとして、その後に意識が介入し、それに対する感情が起こる。
この意識の介入を制御する事ができたのならば、ひとは苦しみから解き放たれるのである。

その(苦しみをもたらす)出来事は世の無常から起こるものである。起こるべくして起こるのである。それまでの自分の行いも大いに影響している。
駅にいると電車が来るようなものである。夏場に台風が来るようなものである。
ただそれだけの事。そこに自ら苦しみを生じさせる必要はない。


たまにはまじめに行きました。ポネソニック




ゴッゴルヤッヒョイ


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by ijigengazou | 2004-08-30 16:57 | 考察

アクセスについて考えてみる

昨日、今日とアクセスが増えているわけですが、なんとほとんどがオリンピックネタへのアクセスなんですねぇ。とくにミャオミャオなわけですが。
ぶっちゃけオリンピック見てないんだよね。まともに見たのは卓球の福原愛・ミャオミャオ戦と女子バレーボールの日本対中国戦ぐらいなんですが。でも、僕はかな派です。でも大友愛が一番かわいいと思います。女子中国の監督はいつもにやにや。あれ結構格好いいんじゃないですか?わしから見るとそう見えます。
というわけでわたくし間違った見方してると思います、オリンピック。

こんな間違ったオリンピック日記見てもらって恐悦至極に存じます。


ポネソニック


ゴッゴルヤッヒョイ


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by ijigengazou | 2004-08-29 22:26 | 考察

ミャオミャオがいいと思うわけ

未だ一部のファンの間(わしも含めて)で根強い人気を持っているオーストラリアの卓球選手ミャオミャオ。

しかし、これぐらいの子なら自分の周りにもいるのではないか。とびっきりかわいいとか美人とかいうわけではない。では、何故こんなに人気があるのか。

まず、彼女の不透明性とでもいうもの。ほとんど情報が無い。これまでの経歴などはあるが、それだけ。これが好奇心を沸き立たせる。
次に、卓球の選手だということ。ふつう卓球というものはダサいというイメージがある。そんな先入観に包まれた人たちが、オリンピックの卓球を見ていた。すると、対戦相手がそこそこかわいい。いるはずのない世界にかわいい選手がいる。意外性ですか、これが彼女をよりかわいく見せる。
そして、決して一般受けはしないということ。いくらファンがミャオミャオかわいいな。と言ってみたところで周りの人は「そおか?」という反応をする。これが自分達だけのものという気持ちを増長させ、ファンのやる気を出させている。

こんなところか。きっとミャオミャオが日本で有名になって、TVとかCMとか出たりするとだんだん熱が冷めてくるんじゃないだろうか。

同じことがぺ様でも言えると思うけどね



ポネソニック


 

ヤッヒョイポネソニックゴッゴル


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by ijigengazou | 2004-08-27 23:24 | 考察

潜在意識(内奥)と言葉から自己を考察してみる

これは昔他のコーナーで書いていたものですが、今読んでいる本とマッチしたのでこっちに転載しました。読みにくいと思いますが興味があったら読んでみてください。


 物を考える時、どういう過程を経て考えていますか?多くの場合は、言葉で考えると思います。しかし、実際考えているときは、言葉が入る余地はないのです。理論的に考えるとよく言いますが、そのやりかたは、「~だから、~のようになる」と、矛盾が生じないように言葉で繋ぐ事ですが、「~だから」と「~のようになる」という言葉の間には、無意識の考えが入ります。言葉ではこの間は埋めれません。同様に、あらゆる言葉の隙間には、無意識の考えが入ります。それが、言葉に訳されて初めて意識できるのです。この言葉で訳す作業を考えている、思っていると思いがちですが、実際考えているのはもっと奥深く、自分の意識の届かないところなのです。言葉は、その内奥にきっかけを与えているに過ぎません。しかし、そのきっかけを与えるように仕向けているのも内奥です。言葉は内奥から生じたものが言葉という形になっただけであるから。
 ということは、この物思う自分。デカルトは、我思う故に我ありと言いましたが、ものを思っている内奥のものは、自分(言葉に訳し、理解するもの)では意識できない。内奥にものを考える何かがあるということはわかるが、そのものの実体を意識することはできない。デカルトが言った我は、内奥から出てきたものを言葉に訳した自分であり、思っているのは、自分ではなく、内奥である。自分は物を思うことが出来ない。それゆえに、内奥を求めることも出来ない。内奥が内奥自体を認めることが出来るかもしれない。しかし、自分は内奥によって言葉を知らされるのみであり、内奥が内奥を認識しようとしない限り、言葉しか知らない自分は内奥に対して内奥を認識せよという命令を出すことは出来ない。なぜなら、命令を出すのは内奥であるから。
 要するに、自分は言葉を知るのみであり、物を考えることは出来ない。とすると、ここまで自分と言ってきたものは何であるかという疑問が生じてくる。ただ、言葉を知るのみのこの存在はなんなのか。
 体を動かそうと思った場合、別に言葉に直さなくても体を動かすことが出来る。今まで自分であるとされてきたものを介さなくても、生きていけるのだ。しかし、人は一人では生きてはいけない。他者と関わりあいながら生きていかなければならない。このとき、言葉を知るこの(自分)が利用される。内奥から生じたものを言葉に変換し、口という器官を介して外部とコミュニケーションをとる。だから、(自分)は、手、足、口などと同じように、ただの器官に過ぎないのではないか。この体、(自分)を動かしているものは、感じることが出来ない何かである。
 無意識に考えが起こるが、意識して考えを起こすことも出来る。たとえば、言葉に変換しなくても、指を動かそうと思えば(言葉で思わなくても)動かすことができる。これは、自我によって起こるのではないのか。
指を動かそうと思うと、動かすことは確かにできる。しかし、どうして指を動かそうと思ったのか。この発想は、これまでの条件、因縁から起こる。ということは、指を動かそうと思うきっかけは、自分にあるのではなく、自分以外にある。
 雨が降ったから傘をさそうと思ったとする。
なんでそう思ったのか?
そう聞かれて普通は「濡れるから」とか「雨が降ったから」とか答えるし、それで満足するだろう。でも、なんで雨が降ったら濡れるという考えが出てきたのか。これは自分の意識できるところの考えではない。意識せずに、濡れるという考えが浮かんでくる。また、濡れるというのが浮かんだら、次に傘をさそうという考えがこれまた自然に浮かんでくる。脳が無意識のうちに答えを求めるのだ。
計算機に数式を入力したら、パッと答えが出るように。使うものにとって途中の計算過程はわからない。言葉で物事を認識している自分が、計算機を使う者であるとしたら、脳は計算機である。
この脳の無意識下の思考を自己と呼べるのか否か。



 

ヤッヒョイポネソニックゴッゴル


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by ijigengazou | 2004-08-23 22:25 | 考察