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祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理を顕はす。奢れる者も久しからず、ただ春の夜の夢の如し。猛き人も遂には滅びぬ、偏に風の前の塵に同じ。
by ijigengazou
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潜在意識(内奥)と言葉から自己を考察してみる

これは昔他のコーナーで書いていたものですが、今読んでいる本とマッチしたのでこっちに転載しました。読みにくいと思いますが興味があったら読んでみてください。


 物を考える時、どういう過程を経て考えていますか?多くの場合は、言葉で考えると思います。しかし、実際考えているときは、言葉が入る余地はないのです。理論的に考えるとよく言いますが、そのやりかたは、「~だから、~のようになる」と、矛盾が生じないように言葉で繋ぐ事ですが、「~だから」と「~のようになる」という言葉の間には、無意識の考えが入ります。言葉ではこの間は埋めれません。同様に、あらゆる言葉の隙間には、無意識の考えが入ります。それが、言葉に訳されて初めて意識できるのです。この言葉で訳す作業を考えている、思っていると思いがちですが、実際考えているのはもっと奥深く、自分の意識の届かないところなのです。言葉は、その内奥にきっかけを与えているに過ぎません。しかし、そのきっかけを与えるように仕向けているのも内奥です。言葉は内奥から生じたものが言葉という形になっただけであるから。
 ということは、この物思う自分。デカルトは、我思う故に我ありと言いましたが、ものを思っている内奥のものは、自分(言葉に訳し、理解するもの)では意識できない。内奥にものを考える何かがあるということはわかるが、そのものの実体を意識することはできない。デカルトが言った我は、内奥から出てきたものを言葉に訳した自分であり、思っているのは、自分ではなく、内奥である。自分は物を思うことが出来ない。それゆえに、内奥を求めることも出来ない。内奥が内奥自体を認めることが出来るかもしれない。しかし、自分は内奥によって言葉を知らされるのみであり、内奥が内奥を認識しようとしない限り、言葉しか知らない自分は内奥に対して内奥を認識せよという命令を出すことは出来ない。なぜなら、命令を出すのは内奥であるから。
 要するに、自分は言葉を知るのみであり、物を考えることは出来ない。とすると、ここまで自分と言ってきたものは何であるかという疑問が生じてくる。ただ、言葉を知るのみのこの存在はなんなのか。
 体を動かそうと思った場合、別に言葉に直さなくても体を動かすことが出来る。今まで自分であるとされてきたものを介さなくても、生きていけるのだ。しかし、人は一人では生きてはいけない。他者と関わりあいながら生きていかなければならない。このとき、言葉を知るこの(自分)が利用される。内奥から生じたものを言葉に変換し、口という器官を介して外部とコミュニケーションをとる。だから、(自分)は、手、足、口などと同じように、ただの器官に過ぎないのではないか。この体、(自分)を動かしているものは、感じることが出来ない何かである。
 無意識に考えが起こるが、意識して考えを起こすことも出来る。たとえば、言葉に変換しなくても、指を動かそうと思えば(言葉で思わなくても)動かすことができる。これは、自我によって起こるのではないのか。
指を動かそうと思うと、動かすことは確かにできる。しかし、どうして指を動かそうと思ったのか。この発想は、これまでの条件、因縁から起こる。ということは、指を動かそうと思うきっかけは、自分にあるのではなく、自分以外にある。
 雨が降ったから傘をさそうと思ったとする。
なんでそう思ったのか?
そう聞かれて普通は「濡れるから」とか「雨が降ったから」とか答えるし、それで満足するだろう。でも、なんで雨が降ったら濡れるという考えが出てきたのか。これは自分の意識できるところの考えではない。意識せずに、濡れるという考えが浮かんでくる。また、濡れるというのが浮かんだら、次に傘をさそうという考えがこれまた自然に浮かんでくる。脳が無意識のうちに答えを求めるのだ。
計算機に数式を入力したら、パッと答えが出るように。使うものにとって途中の計算過程はわからない。言葉で物事を認識している自分が、計算機を使う者であるとしたら、脳は計算機である。
この脳の無意識下の思考を自己と呼べるのか否か。



 

ヤッヒョイポネソニックゴッゴル


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by ijigengazou | 2004-08-23 22:25 | 考察
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